8月16日『主の兄弟とは』ルカ福音書8年19~21飾福島牧師
こどもさんびか「きょうだいげんかを」はクリスチャン作家の阪田寛夫氏作詞、従兄の大中恩氏が作曲です。「兄弟喧嘩をしない日は、十日に一度か月二回、仲良くするのは難しい神さま、神さま、神さま、そのわけ教えてください…」と。讃美歌略解には「子どもの言葉で神様に問いかけながら祈る讃美歌」と記され、考えさせられます。讃美歌『幾千万の母たちの』もベトナム戦争や安保闘争の頃に二人が作った反戦歌。阪田氏は20歳を戦地に過ごし、大中氏は音楽学校同級生6人中、4人が戦死、平和への強い祈りが込められます。敗戦81年を迎えた今も世界平和の祈りは止みません。世界は皆兄弟と願いつつ、しがらみのない友人関係が良い場合も多いもの。聖書のカインとアベル、エサウとヤコブの物語は兄弟とは何かを考えさせます。イエス様にもヤコブ・ヨセフ・シモン・ユダの弟の他、複数の妹がいたようです。カナの婚礼での母マリアのイエス様への言い方は、ご降誕での天使の言葉を忘れたようです。マルコ3章にはイエスが気が変になっていると聞き兄弟が取り押さえに来たと記され、イエス様も家庭では普通に過ごされていて、家族の中
8月23日
8月9日『愚かな金持ちの譬え』ルカ12章 13~21節 福島牧師
遺産を巡る兄弟争いのためイエス様に相談しに来た人がい ました。「先生、私にも遺産を分けてくれるように兄弟に言ってください」と。相続権を何らかの事情で失った人です。イエス様は事情を察し「誰が私を、あなた方の裁判官や調停人に任命したのか」と言うのです。2千年前の裁判制度ですが、人の問題は簡単には解決しません。イエス様は心の問題を見抜き「貪欲に注意せよ」と言われるのです。欲は生存、社会生活を営むために必要ですが、「貪欲」は周囲も本人もダメにし際限ありません。心理学は欲望を70に分類しますが、イエス様は「どんな貪欲にも注意を払い、用心しなさい。有り余るほど物を持っていても、人の命は財産によってどうすることもできない」と言うのです。ヨブ記は「わたしは裸で母の胎を出た。裸でそこに帰ろう。主は与え、主は奪う。主の御名はほめたたえられよ」と記します。人の現実を空しいとはせず、神がなさることは褒め称えられるべきと考えました。イエス様は遺産の事しか頭にない男に譬えを話すのです。突然の豊作で更に大金持ちになる男の譬えです。将来の安泰に飲み食いに興じる男。莫大な資産も命
8月16日
8月2日『実のならない木』ルカ福音書13章6~9飾福島牧師
聖書には「平和」の言葉が多用され、旧約39巻中23巻、新約27巻中26巻に記され、唯一、Iヨハネだけ「平和」がありませんが、平和に関心が無いのでなく「互いに愛し合いましょう」等、平和実現の具体策が沢山記されます。微力でも平和を祈り続けることは平和実現の大切な働きです。アラビアでは6千年前からいちじ栽培がなされ、日当たりや肥料、前定、温度の影響で「成り年、成らない年」が起きます。いちじくは根がく張り、実が成らなければ、ぶどう栽培を妨げるため切り捨てました。ぶどう園は園丁(庭師)の所有ではないため、園丁は持主を説得しいちじくの快復を願うのです。イエス様は神(主人)と人との間のカウンセラー(仲保者)なのです。いちじくは「平和と豊饒」の象徴で、戦争や搾取による豊かさでなく、神の平和にある豊かさなのです。実を結ばないイチジクは神の教えに従わないイスラエルを象徴し、3の数字は長い歳月も意味しす。たとえ途方もない時間が.かかっても平和の実を望んで待ち続け、置かれた場所で懸命に栽培を続ける園丁のがあります。これは「訴える人と仲直りできるよう努めよ」等の中の譬え話
8月10日
7月26日『五羽の雀』ルカ福音書12章4~7節福島牧師
教会の児童会2階軒下に雀の巣があり、巣立つ姿が毎年見られます。聖書の雀は日本の雀と微妙に色形が違いますが、建物や神殿を飛び回っていました。五羽2アサリオンは一日の労働 8000 円と考えると1匹 200円位でしょうか。大牟田で雀の焼鳥が一匹10円ですから、ありふれたの意味です。それでも自然の中で誰にも気にも留められなくても懸命に生きています。以前、国を挙げ穀物を食べる害鳥だと雀は駆除すると、害虫が増えて農産物が壊滅状態になった話を聞きます。その大切な役割は人には分りません。イエス様は神様がどのような方か雀を例に説明されるのです。「恐れ」の言葉が繰り返されます。11章末尾に緊迫した状況が読み取れます。イエス様を不審に思うパリサイ人や律法学者など宗教的指導者からの監視、ユダヤ地方を支配するローマ帝国からの監視、12弟子の一人、シモンは宗教的政治集団である熱心党に属しこれも警戒されました。弟子の多くがガリラヤ出身で強い訛りや身分格差も含め、恐れることばかりでした。イエス様はそんな弟子たちの思いを察し、本当に恐れる方は神様ではないか、と言うのです。その恐
8月2日
7月19日『子ども祝福』ルカ福音書18章15~17飾 福島牧師
イエス様が子どもへの思いが記された場面です。今もレストランや音楽会など「5歳未満の子供はお断り」と記す所も多く、教会も礼拝の妨げだと、子ども連れの保護者が困惑する話をお聞きします。母子室など設置しても良い解決には至りません。ガリラヤ湖畔のカフェルナハムのペテロの家の近くにイエス様が幼い頃に通ったと言う会堂跡が残ります。石畳に子どもが遊んだ痕跡が刻まれ、会堂の隣部屋のようでした。ルカ福音書は、イエス様の祝福を受けに人々が乳飲み子まで連れてきます。弟子たちが人々を叱ると、イエス様は逆に弟子たちの行いを咎めるのです。マルコ福音書では憤って弟子たちを叱る様子が記されます。そして「子供たちをわたしのところに来させなさい。妨げてはならない。神の国はこのような者たちのものである。」と言われるのです。今も礼拝の本質を考える上での課題です。教会が子育ての悩みを抱え、地域で孤立する若い家族やお年寄りも含めて良き居場所になっているでしょうか。閉鎖的な地域の伝道所では、みんなの温かなさに囲まれ礼拝が守られ良き伝統となっています。イエス様は子どもが大好きでした。幼子は簡単
7月26日
7月12日(日)『旅の目的』創世記24章54~61節福島牧師
古い諺に「可愛い子には旅をさせよ」があります。「その子を大切に思うなら、甘やかさず、外に出し、苦労や経験を積ませるべき」の意味。聖書では誰もが「神の子」、老いて動けなくなっても聖書の心に重ねれば「心の旅」は広がります。或る教会員は癌末期の集中治療室で自分の現在・過去・未来への旅の歩みを神の心に重ね、祝された確信の中、天の故郷へ向われた。聖書での最初の旅は信仰の父・アブラハムから始まります。75歳で主の召命を受けてから百年に渡る旅でした。祝された旅とはいえ辛い経験もします。異国での旅の途中で最愛の妻サラを亡くし、聖書で最初の葬儀となります。息子のイサクのパートナー探しを最も信頼する僕に命じます。僕に託された基準は「旅人への思いやり、尊敬、神への敬虔」でした。僕は井戸の前で待つと、その女性が現れました。旅人のために深い井戸から水を汲み、ラクダにまで労をいとわない姿に僕は確信します。彼女も僕の敬虔な姿、家族兄妹親族へ気配りに、申し出を快諾するのです。そうして遠くで待 つアブラハムの祈りは神様に聴かれるのです。「旅の目的」が4回記され、旅の明確な目的が困
7月19日
7月5日『ザアカイの物語』ルカ福音書19章1~10飾 福島牧師
仕事柄、人に嫌われ寂しく生きる徴税人の頭ザアカイに主の救いが訪れる物語です。ザアカイとはヘブライ語で「清い、義人」の意味。親が期待した名ですが現実は逆。けれど主の言葉に心に隠された「義人」が芽を出すのです。当時はローマ帝国支配下で人々は帝国との二重税で苦しみます。徴税人の中には集めた中から私服を肥やす者もいて、皆から嫌われたのです。彼はイエス様が近くを通る噂を聞き、気付かれないよう、通りのイチヂク桑の木に登って待つと、群衆に囲まれイエス様が来ます。そして突然、木の上のザアカイに「あなたの家に泊まりたい」と声をかけられるのでした。陰口を叩く人はいても喜んでくれる人はいません。孤独に苦しむザアカイの思いを察し、イエス様は彼の家に赴き、言われた言葉が「今日、救いがこの家を訪れた」でした。キリストの優しさに触れたザアカイは蓄えた私財を貧しく虐げられた人々へ用いる響いをたてて歩み始めるのです。ザアカイが「清い・義人」となった瞬間です。或るクリスチャン弁護士が「どんなに責めても人は変わらない。けれどその人と共に泣くときに人は変えられる」と。ザアカイは主の愛の
7月12日
『オネシモの物語』コロサイ書4章7~9飾<地区講壇交換> 久世そらち牧師(美唄教会牧師)
『オネシモの物語』コロサイ書4章7~9飾 <地区講壇交換> 久世そらち牧師(美唄教会牧師) コロサイの教会に宛てた手紙を持参したのはティキコとオネシモです。オネシモをあぐっては、フィレモンへの手紙」から、こんないきさつがあったと考えられています。オネシモは、コロサイに住む信徒プィレモンの所有する奴隷でしたが、あるとき、主人の金をもって逃亡してしまいました。ところが、逃ビ先でふしぎにもパウロにめぐり合い真摯な信仰者となってパウロにもかわいがられるようになります。そしてオネシモは、処罰を覚悟でフィレモンの元に帰ることを決意します。そのオネシモに、パウロはフィレモンへのとりなしの手紙を持たせました。フィレモンはそれを読み、だいじに保管し、人にも見せ、手紙は書き写されて広まり、やがて新約聖書におさめられました。フィレモンはオネシモをゆるし、信仰の兄弟として受け入れたのでしう。 コロサイの教会の人々もまた、逃亡奴隷のオネシモを、自分たちの交わりの中に受けいれたということでしょう。とりなされたオネシモ、オネシモを愛しかばうパウロ、戻ったオネシモを迎え入れたフ
7月7日
6月14日『非難の時』エフェソ書4章25~32節福島牧
6月14日『非難の時』エフェソ書4章25~32節福島牧師 今日は日本基督教団の「子どもの日・花の日」です。子どもは神様からの賜物だからとして150 年前、米国のレオナルド牧師の提案で、6月に子どものための特別の集会をもったのが始りです。その10年後、米国のメソジスト教会の年会(総会で6月第2日曜を「子どもの日」に定めました。丁度、花の季節で、家の庭の花を持ち寄って会堂を飾り、礼拝後、その花を子どもに持たせ病院等を訪問、奉仕と感謝の心を学ばせたのです。さて、非難される時があります。人の欠点や過ちを取り上げ責められます。パウロはIテサロニケ2:10「わたしたちがどれほど敬虔に、正しく、非難されることのないようにふるまったか…」と細心の注意を払い伝道に臨みました。けれど非がなくても非難されることがあります。ギデオン協会は、その時に読む聖書として勧めます。32節「互いに親切にし、憐みの心で接し、神がキリストによってあなたがたを赦したように」と。5章1節には「あなた方は神に愛されている子供ですから」と子どもを諭すように優しく記します。パウロの獄中書で遺言同
6月28日
6月14日『非難の時』エフェソ書4章25~32節福島牧師
6月14日『非難の時』エフェソ書4章25~32節福島牧師 今日は日本基督教団の「子どもの日・花の日」です。子どもは神様からの賜物だからとして150 年前、米国のレオナルド牧師の提案で、6月に子どものための特別の集会をもったのが始りです。その10年後、米国のメソジスト教会の年会(総会で6月第2日曜を「子どもの日」に定めました。丁度、花の季節で、家の庭の花を持ち寄って会堂を飾り、礼拝後、その花を子どもに持たせ病院等を訪問、奉仕と感謝の心を学ばせたのです。さて、非難される時があります。人の欠点や過ちを取り上げ責められます。パウロはIテサロニケ2:10「わたしたちがどれほど敬虔に、正しく、非難されることのないようにふるまったか…」と細心の注意を払い伝道に臨みました。けれど非がなくても非難されることがあります。ギデオン協会は、その時に読む聖書として勧めす。32節「互いに親切にし、憐みの心で接し、神がキリストによってあなたがたを赦したように」と。5章1節に「あなた方は神に愛されている子供ですから」と子どもを諭すように優しく記します。パウロの獄中書簡で遺言同様
6月21日