8月30日『見失った羊』ルカ福音書15章1~7飾福島牧師
9月6日
読了時間: 2分
15章に「見失った羊・無くした銀貨・放蕩息子」の三つの譬えが記されます。イエス様の話を聴きに、罪人らは慰めと生きる力を得るために、ファリサイ派や律法学者らは監視とイエス様を罪に定める手がかりを見つけるためでした。罪人と共に徴税人もいて、ローマ帝国の税金も徴収するため、罪人のように思われていまし
た。罪人は宗教的ペナルティーを果たしても偏見のために辛い中に置かれていたのです。主の話を聞きながら、律法学者らは不平を言うのです。そこで「見失った羊」の譬えを話すのでした。羊は一匹で詳れから離れ
ると獣の餌になりますから救けが必要です。羊飼いは都会の資産家に雇われ、寝ずの番をして羊を育てます。100 匹もいれば1匹位とはなりません。弁償するにも低賃金で払えませんから借金するか、命がけで探しに行くのです。だから見つかるとその苦労を知る関係者は心から喜び合うのです。事情を知らない人は冷酷です。神様の眼差しは、迷子の羊を探し出す羊飼いや喜びをもって一緒に歩む人々の温かな真心に向けられます。神様はそのような方ですし、イエス様の神の国の宣教の目的も喜びもそこにあります。繰返される戦争の背景に、不平不満、無理解、偏見、憎しみがあります。イエス様は「悔い改める一人の罪人については、悔い改める必要のない九十九人の正しい人についてよりも大きな喜びが天にある」と言われました。いつしかファリサイ派や律法学者の傲慢さに陥る私たちかもしれません。むしろ、赦しと助け合う豊かさに心を向けるイエス様の言葉に聴きたいのです。



