10月 11日『こころ配り』イザヤ書58章6~11飾福島牧師
10月18日
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幼稚園では秋の収穫物を前に収穫感謝礼拝をもちました。敗戰間もない食糧難では判事すら栄養失調で亡くなっています。1947年1月16日(木)、旭川豊岡教会の三上豊牧師も栄養失調で天に召されます。Xmas礼拝はキリスト教ブームで礼拝堂は学生で満杯でも献金は少なく、牧師を支えられません。当時の学生が後に教会の役員となった時、三上牧師を痛みに覚え「隠退教師を支える運動」として、教区総会に提案、教団総会でも満場一致の採決となります。仏教で断食修行がありますが、キリスト教も修道院で断食しました。アドペントやレント(受難飾の1ヶ月間を主の苦しみ、飢え渇きにある人々の痛みを覚え祈って過ごすのです。断食で超能力が得られるなら、食糧難には超能力者だらけですが、それはありません。ユダヤ教の断食も出エジプトの困難な旅を想い、貧しく困難な人々を覚えるためです。イザヤ書は「断食とは虐げられた人を解放し…飢えている人に心を配り、苦しめられている人の願いを満たすなら」と記します。マザーテレサは若い頃にマタイ25:40「最も小さい者の一人にしたのは、私にしてくれたこと」に惹かれ、イエスさまに会いたいと裕福な子の女子高校長を許し、路上で看取られず死んでいく弱く貧しい人々の中に入り、隣人への「心配り」をし、挫折を繰り返すのです。けれどその「心配り」の痛みこそ彼女を十字架の主の愛の豊さへ導くのでした。断食は、弱くされた人々を覚え、主の「心西り」を我が「心配り」として、主の仕え人へと導かれる中にあります歩みをしたいのです。



