10月25日『優れた人間』歴代誌上17 章 16~17節 福島牧師
作家の村上龍さんは『希望の国のエクソダス』の中で、札幌と千歳の間の架空の町「野幌(のほろ)」を舞台に「この国には何でもある…だが希望だけがない」と記しました。世界一の出版部数を誇るのが聖書です。主にある希望が記されます。汝がサンテグジュペリ『星の王子様』。彼の唯一の童話で「心で見なくちゃ、もの事は良く見えないってこと。肝心なことは目に見えないもの」と書きました。彼も聖書を愛するクリスチャン、聖書のテーマがちりばめられます。幼い頃から聖書に親しんできたからです。郵便輸送の飛行機のパイロット。人々に愛の手紙が届くことを夢見て仕事に臨み、戦争を憎み、平和を愛し1944年の終戦前に44歳で撃墜され海底に沈みます。『星の王子様』は戦争最中の混乱の中で出版されます。平和を願ってどんな祈りを託したのでしょうか。先程の聖書に「優れた人間」という言葉が記されます。争いの中で記されたダビデの祈りです。神の前に自らを悔い、神の赦しを乞い求め、神の前に歩もうと祈る姿は詩編だけの話ではありません。イスラエルの二代目の王ダビデが預言者ナタンの言葉に応え、神に祈る中での言葉で
5 日前
10月18日『はかない話』 詩編 39章3~10飾 福島牧師
昔、クリスチャン作家の椎名麟三氏は受洗の際「洗礼を受けて一番よかったのは、これで死ぬときに『苦しい』とか『死にたくなかった』とか、醜く叫びながら死んでゆく覚悟が出来た」と委ねられる喜びを記します。三浦文学記念館初代館長は文学評論家としてキリスト教や三浦文学への造詣も深い方でしたが、館長就任時は未信者でしたが、やがて癌末期に牧師を招き受洗。「ドフトエフスキーに傾倒した者として、自分の中の善と悪を決着をつけようとして来た。今は、イエス・キリストを仲介者として神に委ねたい。これが私の懺悔 であり告白…自分は哲学の徒として疑うことを通し、絶対的存在である神に近づきたいと願ってきた。それを承知願いたい。…アーメンという言葉をずっーと言いたかった」と委ねられる喜びを語るのです。詩人も死の近いのを悟る中、安易に神に委ねるのは自己逃避と考え「いかに私がはかないものか、悟るように」と神に委ねられない自分が情けなく、自立すべき思いが「空しい」とさせ、涙し、叫び、沈黙するのです。詩人は神から命を与えられ、愛される者だと知ることで大胆に神に願うのです。「私を立ち直らせて
10月25日
10月 11日『こころ配り』イザヤ書58章6~11飾福島牧師
幼稚園では秋の収穫物を前に収穫感謝礼拝をもちました。敗戰間もない食糧難では判事すら栄養失調で亡くなっています。1947年1月16日(木)、旭川豊岡教会の三上豊牧師も栄養失調で天に召されます。Xmas礼拝はキリスト教ブームで礼拝堂は学生で満杯でも献金は少なく、牧師を支えられません。当時の学生が後に教会の役員となった時、三上牧師を痛みに覚え「隠退教師を支える運動」として、教区総会に提案、教団総会でも満場一致の採決となります。仏教で断食修行がありますが、キリスト教も修道院で断食しました。アドペントやレント(受難飾の1ヶ月間を主の苦しみ、飢え渇きにある人々の痛みを覚え祈って過ごすのです。断食で超能力が得られるなら、食糧難には超能力者だらけですが、それはありません。ユダヤ教の断食も出エジプトの困難な旅を想い、貧しく困難な人々を覚えるためです。イザヤ書は「断食とは虐げられた人を解放し…飢えている人に心を配り、苦しめられている人の願いを満たすなら」と記します。マザーテレサは若い頃にマタイ25:40「最も小さい者の一人にしたのは、私にしてくれたこと」に惹かれ、イ
10月18日
10月4日「待っておられる神、共におられる神」ルカ福音書15章13~19節 久保木 崇 伝道師(とわの森三愛高校宗教主任)
有名な「放蕩息子のたとえ」ですが、実はこの話、二人の息子を等しく愛す父親の話なのです。弟息子は放蕩を尽くして無一文となり、人生の瀬戸際で正気に立ち戻ります。父の所へ決意して帰る弟。父遠く離れた所で弟息子を見つけます。毎日、道に立って待っていた父だからこそ見つけたのです。父は弟を抱きしめ、全てを失った息子に必要なものを、父が与えたいものを全部与えました。見返りを求めずに与えたのです。全て父から与えられる恵み、これが救いの恵みなのです。キリストの十字架と復活による救い、神との関係の回復こそがそれなのです。兄息子はこれに文句を言いますが、父は兄をなだめ叱責するのではなく祝宴に招くのです。この二つの話は、いずれも父親の方から息子に歩み寄るのです。弟のためには駆け寄り、兄のためには父の方から外に出できて近く向き合ってくださるのです。待っておられるのも、共におられるのも同じ父、その愛は 神の救いはこの神の愛によるのです。神の愛は主の十字架の赦しと救いの福音として与えられました。ご一緒にこの福音を受け入れる者、宣べ伝える者として神の愛の内を歩みたく思います。
10月12日
9月27日『体のともし火』ルカ福音書11章33~36飾福島牧師
韓国で最も愛される聖句がロマ書8:28「万事が益となるよに共に働く」と聞きます。辛い時、悲しい時の慰め希望としてきたのです。聖書に「ともし火」が繰り返されます。著者ルカの名は「光を与える」の意味。闇に勝利する光であるキリスト、その光を託された仕え人の責任を心に留め記します。人々を暗くさせるか、光となるのかを問うのです。聖書の言葉を光の燃料とし、み言葉の力を受け、主の光を放つ者でありたいとルカは願うのです。イエス様が住んだ山間部ナザレは人口300人の洞窟の町でした。「ともし火」は生活必需品で隠す必要もないし、小さいなりの役割がありました。大切なのは主の仕え人としての「ともし火」となっているのか否かなのです。イエス様は「体のともし火は目」、目が澄み、目に輝きがある人は全身も明るいけれど、目が濁っていれば暗い。だから「あなたの中にある光が消えていないか調べなさいと言われます。夜に街灯の明るさで付け忘れた車のライトを対向車が知らせるよう、隣人との関りで知りますし、孤独闇は人に輝きを失っていることを知らせます。消えたことが問題ではありません。また繰り返し灯
10月3日
9月20日『多様性の一致』ローマの手紙12年3~8節福島牧師
パウロは12章冒頭に、礼拝に招かれた者の交わりは、「神の憐みによって招かれた者」の交わりなのだから、憐みの心を大切にし「自分を過大評価してはなりません」と言うのです。「むしろ、神が各自に分け与えてくださった信仰の度合いに応じて慎み深く評価すべき」と言います。キリストの体を形成する一人一人の役割があります。その違いが神の賜物であることを「慎み深く評価」できないために混乱するのです。それはどの人間関係の中にも起きます。そこでパウロはイエス様の心に重ね「私たちは、与えられた恵みによって、それぞれ異なった賜物を持っています」の言葉に思いを込めて記すのでした。8月26日の中国・ネパール国境付近での氷河壊による土石流は、時速167km、僅か8分で 22k下まで巻き込み、今も多くの方が土砂の中とお聞きし心が痛みます。ネパールは仏教開祖誕生の地ルンビニでも知られますが、2007 年に新しぐ国歌が改定され、その歌詞には驚かされます。多民族・多宗教・多言語の難しさを否定するのでなく、むしろ美徳とし尊重しあう豊さを歌います。「何百もの花からなる我ら一つの花環のネパール
9月27日
9月13日『種を蒔く人』ルカ福音書8章4~8飾福島牧師
イエス様のたとえ話の一つです。種は神様の言葉、土地は聞く人の心を示します。どんなに良い言葉も、聞く耳がないと心に届きません。そこでイエス様は人々に聴く人の心に「端、石地、茨の中、良い土地」の4種類あると言うのでした。「道端」は種を蒔いても直ぐに鳥が来て食べられてしまう。目先の言葉にすぐ心が奪われる人です。「石地」は芽が出ても土が薄く日が差すと根がすぐに枯れてしまう。喜び、感動して聞くけれど、少しの苦難や迫害にすぐ躓いてしまう人。「茨の中」の種は、芽が出ても茨が邪魔して伸びられない。心配ごと、誘惑、様々な理由を付けて逃げ、結局は実を結べないのです。「良い土地」に落ちた種は、み言葉を聞いて悟り、麹待に沿うよう育ち、何十倍もの実を結び、沢山の人の心を満たします。どこに蒔かれるか種自身は分かりません。良い地へ蒔かれる確率は少なくても諦める必要はありません。人の心は揺れ動きますから心配ありません。必ず神の言葉を必要とする時が来ますから、み言葉の種を蒔き続けることが大切です。留萌市隣接の小平町は東京23区と同じ 627 ki, 40前、留萌の開拓伝道を志し『
9月20日
9月6日『尋ね求めるなら』エレミヤ書29章11~14節福島牧師
旧約聖書は預言者の説教の集大成。エレミヤも預言者として、新バビロニア帝国初期に迫害投獄されても神への悔い改めを語り続けました。この手紙はバビロン捕囚の人々に、振り回されずに落ち着いて生活し、卑屈にならずバビロニアのために祈ることをも勧めます。エレミヤの名は「ヤハウェは建設する」の意味。人の欠点、弱さを越えて主が建てられるのです。エレミヤ書の冒頭に召命体験が記されます。「母の胎から生まれる前に、私はあなたを選別し諸国民の預言者として立てた…若者にすぎないといってはならない…彼らを恐れるな。私があなたと共にいて、必ず救い出す」と励ますのです。苦難の預言者として知られますが、苦難の中で主の臨在を経験し、力としたのです。神が呼び出し、用いる。それが召命です。召命感との葛藤もあります。でも心配ありません。神が立てているのですから。むしろその葛藤が大切なのです。それを通して主の仕え人とされ、皆が祝されるのです。預言者は人々を生かすために神の言葉を語り、神によって呼び出された者。神に尋ねつつ歩む時、誰もが主の仕え人、預言者となるのです。世界で愛される聖句の2番
9月14日
8月30日『見失った羊』ルカ福音書15章1~7飾福島牧師
15章に「見失った羊・無くした銀貨・放蕩息子」の三つの譬えが記されます。イエス様の話を聴きに、罪人らは慰めと生きる力を得るために、ファリサイ派や律法学者らは監視とイエス様を罪に定める手がかりを見つけるためでした。罪人と共に徴税人もいて、ローマ帝国の税金も徴収するため、罪人のように思われていまし た。罪人は宗教的ペナルティーを果たしても偏見のために辛い中に置かれていたのです。主の話を聞きながら、律法学者らは不平を言うのです。そこで「見失った羊」の譬えを話すのでした。羊は一匹で詳れから離れ ると獣の餌になりますから救けが必要です。羊飼いは都会の資産家に雇われ、寝ずの番をして羊を育てます。100 匹もいれば1匹位とはなりません。弁償するにも低賃金で払えませんから借金するか、命がけで探しに行くのです。だから見つかるとその苦労を知る関係者は心から喜び合うのです。事情を知らない人は冷酷です。神様の眼差しは、迷子の羊を探し出す羊飼いや喜びをもって一緒に歩む人々の温かな真心に向けられます。神様はそのような方ですし、イエス様の神の国の宣教の目的も喜びもそこにありま
9月6日
8月23日『借金時計』マタイ福音書18章21~35節 福島牧師
夕張市公式サイトに「借金時計」が記されます。忍耐を強いる市民や職員への財政再建目標です。聖書に「借金」の譬えが記されます。弟子ペトロがイエス様に相談し「何度、仲間を赦せば」と。傍にいるから心が通じ合うとは限りません。理解と忍耐も必要です。イエスはペトロをねぎらうのでなく「七回どころか七の七十倍までも赦しなさい」と。そして神の国の心を譬えで語るのです。イエス様の公生涯は洗礼者ヨハネ同様「悔い改めよ、天の国は近づいた」から始まります。それは主の弟子に求められる使命・目標なのです。一連の箇所に「天の国」が多用されます。主の弟子の役割は、神の御国の実現です。イエス様はペトロに、途方もない借金を帳消にする神の赦しを語るのです。1万タラントンは6000万人の一日の賃金です。けれど王は家来を哀れに思い借金を帳消しするのです。家来は借金する仲間を見つけ、僅かな借金をすぐ返せと首を絞め、懇願も無視し牢に入れるのです。仲間たちは心を痛めて主君に伝えると、寛大な主君は非情な家来を呼びつけ「お前を憐れんでやったように、自分の仲間を憐れむべきでは」と、牢役人に引き渡すので
8月30日